引越ししたときのまま置いてあったダンボールの中からヘンな写真が
出てきました。1976年に日本で初めて行なわれたF1レースの写真で、
当時ある人から購入した生写真です。もう変色してますし、写真自体が
あまりいいものではないので見にくくて申し訳ないんですけども。
このレースはF1にもかかわらず、急遽組み込まれたため「日本グラン
プリ」という名称が使えず、「F1選手権インジャパン」という名前で行な
われました。この年の最終戦のレースでニキ・ラウダとジェームス・ハ
ントのタイトル争いのかかったレースでした。
場所は富士スピードウェイで、当時ここと鈴鹿サーキットとはケンカ状
態でもあったことから、鈴鹿で予定されていた「日本GP」の名称を譲
られなかったと言われていました(日本GPは富士と鈴鹿で年毎に交
互に持ちまわり76年は鈴鹿だった)
前年のチャンピオン、ニキラウダ先生です。フェラーリ312T2
ラウダ先生はこの年も前半は勝ちまくりチャンピオンへまっしぐらだったん
ですが、中盤のドイツGP(ニュルブル旧コース)で原因不明のクラッシュを
起こし炎上、生死をさまよう瀕死の重傷を負ったものの2ケ月後には無理
やり復帰しチャンピオンへの執念を見せつけました。しかし富士では雨と
なり、「あまりにも危険すぎる」といい、2周で自らピットに戻り棄権しました。
一方ライバルのハント(故人)は3位でゴールしたためポイントでラウダを逆
転しチャンピオンを獲得しました
ラウダの同僚、クレイ・レガゾーニ(レガッツォーニともいう)
この年レガゾーニは、ラウダ中心となったチームに不満を持ち
フェラーリでの最後のレースとなりました。レース後半には追い
上げてきていたハントにあっさり道を譲るなど(これでハントが
ポイントでラウダを上回る結果に)少し抵抗したりしておもしろ
かったです。レガゾーニはその後80年のUS西GPにおいてブ
レーキトラブルからコンクリート壁に直角に激突、両足を複雑
骨折し、以後車イスでの生活となってしまいました
マクラーレンM23で一時2位を走行していたヨッヘン・マス、でもクラッシュ。
私はこの人のファンでした。自分のハンドル名もこの人に由来してます
この頃のマクラーレンはテディメイヤーが指揮を執っておりいい雰囲気
で好きなチームでした。でもチャンピオンを獲るチームにもかかわらず
「二流チーム」と言われてましたっけね。その後キライなロンデニスに
買いとられ一流チームへと(でも雰囲気は最低)のしあがって今に至る
わけです
JPSロータス77のグンナー・ニルソン。チームメイトのマリオ
アンドレッティがこのレースを制しました。ニルソンは晩成型
といわれ、ようやく頭角を表してきたところで翌年には優勝
も飾っています。しかし翌々年ガンに冒され他界しました
ブラバムBT45+アルファロメオを駆るカルロス・ペース(パーチェともいう)
この年から搭載し苦労してきたアルファロメオエンジンもようやく使い物に
なってきて上位を走ることが可能になった頃です。実際、翌77年には移籍
してきたジョンワトソンと共に上位を走りだしました。しかしこれから、という
時に3月(4月?)に自家用機が墜落し冥界へと旅立たれました
タイレル(ティレルと呼んではいけない)P34に乗るジョディ・シェクター
6輪車というとても変わったクルマです。このクルマの設計コンセプトは
前面投影面積の減少(抵抗の減少)と接地面積の増加によるコーナリ
ングスピードの増加だったと思います。最初(76年)はグッドイヤータイ
ヤの協力もあり上位(優勝も1回)を走れましたが、翌77年はタイヤの
開発もあまり力を入れてもらえず、空力的にもそれほど大きなアドバ
ンテージになっていないことがわかり成績も低迷、78年には通常の四
輪に戻されました。なお現在のF1規定では6輪車は禁止になっていま
す。また、ジョディシェクターはその後79年にフェラーリでチャンピオン
を獲得(チームメイトはジルビルニューヴ)、80年で現役を引退し、実
業家として成功しています
ベータ マーチ761でピットに向うビットリオ・ブランビラ
イタリア人ですが勇猛な顔つきをしていたため「モンツァ
ゴリラ」と呼ばれ
イタリア国内では絶大な人気を誇っていました。良いマシンに恵まれなか
ったこともあり成績はあまりパッとしませんが、それでも75年のオースト
リーで優勝を飾っています。
78年のモンツァでスタート直後にロータスのロニーピーターソンが死亡す
るという(手術ミス)大事故があり、これにブランビラ(マシンはサーティー
ス)も巻き込まれ一時重態になるほどの怪我をしたもののその後カムバ
ックしました。2001年に病死
ウォルターウルフ(ヘスケス改)をドライブするハンス・ビンダー
本来なら桑島正美選手が乗る予定だったのが金銭トラブルで予選
1回目のあと降ろされビンダーに変わりました。チーム監督はあのフ
ランクウィリアムズ、現ウィリアムスチームのオーナーです。このとき
はまだ雇われ監督をしていたわけですね、ウィリアムズは78年に自
分のチームを立ち上げ大きくなっていくことになります。一方ウルフ
のチームも翌77年はまったく新規といえるものとなり、ドライバーに
シェクターを迎え初戦でいきなり優勝、ランキングも2位にでした。
今はタイヤバリアを設置しなければならないんですが、この時代の
富士や鈴鹿ではスポンジバリアを並べていました。二輪レースでは
今でもスポンジが並んでますが四輪でも大きな効果があると思うん
ですけどねえ、FIAの「スポンジバリアは認めない」っていうのは納得
いかんなあ
よく見えませんが(^^;; KE007をだましだまし走らせる長谷見チャン
予選で非常に速くレギュラーメンバーを驚かせている最中に大クラッシュし
徹夜で作り直した未完成マシンをなんとか完走させリザルトを残しました
タイヤは日本ダンロップ製で、ブリヂストンより良かったのではないかと思
います。 翌77年はマシン名もKEからKojima009となり星野先生も乗りまし
たが、予選時はいいものの決勝の満タン時の性能が良くなく、またブリヂ
ストンのタイヤもメタメタであって期待を裏切る結果となりました。
長谷見チャンはその前にチームとモメて出場していません
鈴鹿サーキットランドの古いパンフレットに載っていた80年のF2レース
右から1星野一義、11長谷見昌弘 マーチ802、25高橋国光
トールマン(たぶん)
ときて左から2番目にいるのが中嶋悟先生です。中嶋先生はチームの方針で新
車(マーチ802)を与えられず、一年落ちのマーチ792で走っていたため成績は低
迷してた。いちばん右のウルフはだれだったかなあ、テオファビっぽいんだけど。